東京日本橋から旧東海道沿いに品川宿へサイクリングをした。
江戸時代の旅人へ思いを馳せながら。
本当のことを言うと、日本橋から京都三条大橋まで東海道をずっと進みたい。
でも、それは500kmくらいの道のりで、さらに箱根の山道を進まなければいけない。
つまり、ムリ。
しかし、日本橋→京都を行くのではなくて、一部分だけであれば、ムリじゃない。
短距離ならば、寄り道をしながら進むことが可能だ。
今回は、最初の宿場である品川宿までを走った。
途中、銀座、新橋、泉岳寺、高輪ゲートウェイと抜けて品川宿を目指すサイクリングである。
国道1号線と旧東海道
現代の東海道といえば、国道1号線である。
片道三車線のトラックがビュンビュンと行き交う道。
一方で、江戸時代の東海道は旧東海道。
旅人が行き交うウネウネと進む道である。
国道1号線=江戸時代の東海道(旧東海道)ではない。
もちろん重なっている箇所もあるが、国道1号線と旧東海道は随分と異なっている。
旧東海道を進めば、江戸時代の面影を色濃く残しているところが、けっこうあるのだ。
旧東海道の道路状況は?
昔の面影。。。と言いたいところだが、日本橋→品川は国道15号線をひたすら進むことになる。
よって、路面はしっかりと整備されており、アップダウンもない平坦路が続く。
道路状況よりもトラックやタクシーに注意したいところ。
宅配サイクリスストも信号無視をすることが多いので、注意が必要だ。
日本橋〜品川宿
日本橋は景観が残念すぎる
東海道の起点となる日本橋。
道路のスタート地点として基準点もある。
橋の真ん中には、格好いい麒麟像も建っている。
しかし、橋の上を首都高が走っていて、景観が台無し……。
江戸時代に想いを馳せたくても、単なるゴミゴミと混雑した街中の橋になってしまっている。
この景観は東京オリンピックと大きな関係があるらしい。
高度経済成長期に東京オリンピックを開催。
高速道路を建設するためには土地が必要だったが、ビルを退かすことはできなかった。
よって、首都高の多くは川沿いや川の真上を走らせるしかなかったのだ。
日本橋も例外ではなかった。首都高速建設のために、日本橋川の真上を高速道路が走ることになり、現在に至る。
ただし、この景観を改善しようという話が持ち上がっている。
日本橋の景観を取り戻すために、首都高速を地下にする建設工事が始まっている。
2040年に工事完了予定とのこと。待ち遠しい。
↑ここは日本の道路基準点
↑橋の欄干にある犬は格好いい
↑麒麟も鎮座
↑首都高速がなければ……。
銀座に人がいない
東海道にそって、日本橋から京橋を抜けていくと銀座。
昔も今も、日本一のショッピングストリートといって良いだろう。
令和時代の今も高級ブランド店が並んでいる。
銀座にお店を出す=高級ブランドというイメージがある。
そのイメージを利用したのが、昭和のマクドナルド。平成のApple。
どちらも日本一号店は銀座である。
新型コロナウイルスの影響で閑散としている銀座はどこか寂しい。
新橋といえば電車
銀座を抜けると、新橋だが、全く違う印象の街が並んでいるのが東京の面白いところ。
新橋は明治時代に初めて電車が通った駅であることを歴史の時間に習った。
「文明開花で、新橋〜横浜間に電車が開通!」
という下りがあったことを記憶している。
しかし、
「なぜ、新橋が電車スタート?」
と疑問に思っていた。東京〜横浜ならわかるけれど、どうして新橋なのだろうか。
横浜は理解できる。
江戸末期から外国人居住地となって急速に発展していった。
その横浜と首都を結ぶ電車という発想も理解できる。
で、なぜ、新橋?
銀座&日本橋エリアはすでに商業都市として発展していて、土地が空いていなかった。
よって、新橋までしか線路&駅の土地を確保できなかったというのが理由。
↑新橋駅前には日本初の駅を記念して、機関車が飾られている。
新橋のもう一つの顔が、サラリーマンの街というイメージ。
アフターファイブに居酒屋へ繰り出して、上司の悪口をいいながらお酒を飲んでいる人がたくさんいる印象。
事実はわからないが、確かに駅前は小さなお店が並んでいる。
人がワラワラと路上にでてくるところが、東京丸の内エリアと違う(^_^;)
泉岳寺で47人の侍のことを考える
品川を目指して、さらに進むが、途中でちょっと寄り道。
訪れたのは泉岳寺。
このお寺は赤穂浪士の討ち入りで一躍有名になった。
江戸時代の三代仇討ちで有名な赤穂浪士の討ち入り。
吉良上野介のいじめが元で、殿中で刀を抜いてしまった浅野家のお殿様。
当然、お家断絶となるが、喧嘩両成敗とならずに、吉良上野介は無罪。
この「不平等な」措置に納得のできない浅野家浪人47人が、2年後、吉良亭に討ち入り、見事、主君の敵討ちをしたというお話である。
泉岳寺は浅野家の菩提寺。伝えによると、47人の侍は本懐を遂げた後、泉岳寺を訪れ、旧主君に報告をしたらしい。
境内は綺麗に手入れされていて、静かな時間を流れる。
しかし、「ここで吉良上野介の首を洗った」という場所もある。
↑ここで首を洗ったらしい
静かな境内からは想像もできない歴史の一面がある。
高輪の今と昔
泉岳寺近く、品川の手前は高輪である。
ここ高輪には新しい山手線駅、高輪ゲートウェイができたことが記憶に新しい。
もともとはJR東日本田町車両センターがあったところ。
つまり、JR東海道線の車庫である。
上野東京ラインが開通したことで、都会の一等地に車庫を設けておく必要も無くなった。
田端にも車庫あるし。
そこで、車両センター再開発が行われることになり、その一環として、完成した駅舎である。
ガラス張りの駅で、明るく、先進的なデザインが格好いい。
隈研吾(くま けんご)氏によるデザインで、国立競技場なども彼の作品である。
↑高輪ゲートウェイ駅
しかし、モダンな駅舎よりも、その名前で有名になった駅である。
駅名は公募だったのに、130番目に表が多かった『高輪ゲートウェイ』という駅名になって疑問が投げかけられた。
しかし、JR東日本は駅名変更を予定していない。
東洋経済オンラインの取材によると
この地域は、古来より街道が通じ江戸の玄関口として賑わいをみせた地であり、明治時代には地域をつなぐ鉄道が開通した由緒あるエリアという歴史的背景を持っています。 新しい街は、世界中から先進的な企業と人材が集う国際交流拠点の形成を目指しており、新駅はこの地域の歴史を受け継ぎ、今後も交流拠点としての機能を担うことになります。新しい駅が、過去と未来、日本と世界、そして多くの人々をつなぐ結節点として、街全体の発展に寄与するよう選定しました。
たしかに、この地は江戸時代において、高輪は江戸の玄関口であった。
品川は江戸ではない。品川で休息してから、江戸入りしたのである。
江戸は高輪から始まっていた。
江戸時代の玄関だった名残として高輪大木戸跡の記念碑が国道15号沿いに残されている。
江戸時代の玄関口、そして21世紀では羽田空港へつながる世界への玄関口。
その二つのことを伝えるグローバルな駅名として、『高輪ゲートウェイ』というのは悪くないと思うけど。。。!?
↑駅外から入る3階のスタバ
↑近未来年建設中
品川に鯨だって!?
品川駅(港区にあり品川にはありません)を過ぎて、橋を超えると、いよいよ品川宿。
かつては、品川宿は海岸線にある宿場町だった。
その当時を思い起こさせる事件を記録した場所がある。
利田神社と鯨塚がその場所。
利田神社の境内でもある鯨塚は、現在、公園となっている。
その公園遊具は鯨を模している。
しながわ観光協会によると、
境内にある鯨塚は、江戸を驚かせた三大動物の一つ「寛政の鯨」の骨を埋めた上に建てられた供養碑です。寛政10年(1798)5月1日、品川沖で体長九間一尺(約16.5メートル)、高さ六尺八寸(約2メートル)の鯨が現れ、品川の漁師たちが捕獲しました。この大鯨は江戸中の評判となり、11代将軍徳川家斉が浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)で上覧されたほどの大騒ぎとなりました。
鯨が迷い込んでくるだけで驚きで、将軍様が興味をもつのも納得。
私も江戸市民だったら、絶対に見物に行くと思うよ。
鯨が迷い込んでくるということはここが、かつての海岸線であったということ。
その鯨は海に帰ることができずになくなってしまったので、ここに、お墓=塚がつくられたのだ。
今は、海岸線の埋め立てが進み、湾岸の印象が全くないが、鯨塚という名前と公園遊具にその面影を感じることができる。
ところで、三大動物の後2つは『京保の象』、『文政のラクダ』。
↑江戸時代の海岸線と思われる雰囲気
品川宿にて
ついに到着、品川宿。
商店街は当時の面影を伝えようと、電信柱なども地中に埋め込まれている。
↑記念碑
↑本陣跡
↑品川寺(ほんせんじ)には大きな大仏がある!
↑境内にはカフェもあり、ゆっくりできるよ♪
↑銭湯、北品川温泉 天神湯、おすすめ!
↑荏原神社(えばらじんじゃ)は明治天皇もお立ち寄りになったらしい
おまけ
品川といえば、実は海苔が有名らしい。確かに江戸時代の品川は海岸沿いの街だった。海苔煎餅などが有名とのことなので、まあお土産を買いにいかないと!
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